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新潟漆器について

あらまし

北前船の寄港地で、古くから物資の集散地として栄えた港町新潟には、
様々な地方の文化とともに沢山の漆塗りの技も伝わり、
新潟漆器は「変り塗りの宝庫」と呼ばれるようになります。
新潟漆器の始まりは約400年前の江戸初期、元和年間といわれ、
1638年(寛永15年)には現在の古町7番町に椀店(わんだな)
と呼ばれる漆器の専売地域が定められ、保護政策がとられました。
主に座卓やお膳、お盆などの日用品が中心で、江戸時代末期には江戸や大阪をはじめ、
北海道にまで販路が広がり、新潟漆器は日本有数の漆器産地となりました。
明治期から大正期においても漆器は新潟市の特産品として県内最大の生産額を誇っており、
明治には竹の節や筋、 ゴマや煤けた感じなど、竹の肌合いを漆で表現する竹塗の技法が伝わり、
新潟漆器を代表する塗りの一つとして現在に至っています。
新潟漆器は平成15年に国の伝統的工芸品の指定(花塗、石目塗、錦塗、磯草塗、竹塗の5技法)を受け、
そうした伝統技術を継承しつつ新しい試みに意欲的にチャレンジし、
現在では新たに夕日塗や朧銀塗を開発するなど日々進化し続けています。

年表
      

漆器に関しては日本・新潟県レベルの項目

新潟市漆器業の商業的な側面

新潟市漆器業の技術的側面

1615 – 24 元和年間

秋田(能代)の春慶塗が伝えられたことが新潟漆器の始まりとされる。
板折敷・行厨(弁当箱)・膳・重箱などを製造。

1638 寛永 15

新潟町の古町通4ノ町に、塗物と紙を専売する塗物紙店が登場。

1640 寛永 17

漆器業27戸。生産額はわずかとの記録。

1656 明暦 2

塗師屋1件、檜物屋6軒、指物屋3軒、漆屋2軒の記録。

1697 元禄 10

檜物屋18軒、指物屋14軒、足駄屋84軒の記録。
輪島や会津からの品物も多かったこと、
新潟における塗物の商いが増えていたことが推察される。
新潟湊における塗物の移出入額3,000両(瀬戸物は1,000両)。

1761 宝暦 11

漆器の生産額730両の記録。

1764 – 72 明和年間

三根山藩士・渡邊源蔵、会津若松の畠清兵衛が新潟に来て漆器を改良、
膳類・重箱類の生産量増加、他所への販売の道が開けたと伝わる。

1764 – 72 明和年間

会津若松の畑清兵衛が新潟町の塗師・塩屋五郎助のもとに滞在、
堅塗(一種の渋地塗で、磨かないで光沢のある塗り)の技法を伝える。

   

弥彦(現・西蒲原郡)の渡辺氏、磯草塗を創案。

1789 寛政元

漆器の生産額2, 150両の記録。寛政から文化のころには塗師があった。
なお、塗師は店売りは禁止されるが、注文品は許されたと伝わる。

1804 – 17 文化年間

金磨塗、銀磨塗が新潟町で始まる。

江戸中期以降  

新潟漆器史に名を残す名工の輩出。花塗の谷平作、磨出塗の権右衛門、
木地師の卯之吉、フロの考案者といわれる風間庄五郎、
多くの門弟を育てた谷平作(2代)。

1838 天保 9

漆器の生産額3, 000両の記録。

1843 天保 14

新潟の椀店が扱うのは、会津産と新潟産が1位、2位。京都、輪島……と続く。
漆器関係の株仲間と役銀納入者の内訳は、指物屋の株数27、弟子株56、
檜物屋の株数25、弟子株52。

1844 – 48 弘化年間

会津から職工が来て蒔絵の技術を導入、評価が高まり移出も増加と伝わる。

1852 嘉永 5

塗物店14軒、塗物師73人、職工90人。膳・折敷・箪笥・州箱などを製造。
販路は、江戸・大坂・丹後・但馬・松前。販売額は5, 000両を超える。
塗下駄や塗足駄の生産も多かった。

1864 元治元

椀店15軒、塗物師90軒、木地製作者の指物屋26軒、檜物師90軒、
職工300人超。

   

江戸時代末期、越後で漆搔きが大規模化。
明治に入って最盛期を迎える。

維新期  

名工として、青山碧山、伊藤小平、木村巳之吉らがいた。

   

明治維新の前後は、漆器業界はおおいに衰退。
また、コレラ(12年)や大火(13年)で、新潟町全体が沈滞する。

1870 明治 3

仙台出身の東京で有名な鞘塗師・橋本市蔵が、竹塗を考案。

1878 明治 11

漆工147人、描金工12人、生産額7, 510円の記録。

   

全国的に漆器生産量が増大。漆器以外の産業でも漆の需要増大。
明治期、新潟漆器のおもな商品は、膳類・重箱類などといった板物の
日用品がメイン。

1885 明治18

このころ、江戸の橋本市蔵が創案した「竹塗」技法が長谷川善左衛門
(橋本市蔵の高弟)によって、新潟の塗師・吉田久平に伝授される。

1886 明治19

漆器業界、組合を結成。

1889 明治22

同業組合法に基づき、新潟市漆器同業者組合を設立。
なお、漆器製造者は、明治25年に47戸、明治35年に140戸(職人234人)。
明治35年の組合員は160人。

1901 明治34

県主催の1府11県連合共進会(=博覧会)開催。品評会において、
漆器では新潟市内の出品者が2人、2位を獲得している。

   

新潟商業会議所の調査では、漆器製造業者は127戸、木地師52戸、
塗師63戸、蒔絵師12戸、職人数は280人。分業体制になっていた。

1902 明治35

新潟市の工業物生産額のうち、漆器は92, 569円。

   

廃藩後は保護政策がなくなり、漆の栽培地は桐畑や桑園などに転用。
中国産漆の輸入増大、国産漆は工業的需要の圏外に。
中国産は大正末期から昭和初期が最盛期で、
国産漆は需要60万貫のうち1万貫。
そのうち、新潟産は1, 000貫。

昭和初期  

昭和初期の製品は、蠟色塗・磯草塗・花塗がメイン。竹塗・金磨塗が続く。
石目塗・青銅塗なども研究改善され、評価を得るようになった。

   

昭和恐慌(昭和4年)のもとで、販売不振。生産調整失敗、値崩れ。

1935 昭和10

漆器業にかかわる職人は366人の記録。
漆器同業組合の構成は漆器販売業(椀店)11人、
塗師59人、木地業31人、蒔絵業11人。

1935 昭和10

満州事変(昭和6年)以後は、原料の漆液が入手困難になり、困難をきわめる。

   

太平洋戦争突入(昭和16年)後は、漆工の徴兵、漆液の切符配給制に。
徴用工の弁当箱や、勲章用の箱などを受注して、生産を続けた。

   

敗戦(昭和20年)直後は、占領軍が日本土産品としてか、漆器を大量に発注。
硯箱・タバコ箱・菓子器などを納めた。
物資不足のためか、作れば売れる状態がしばらく続いた模様。

   

戦後、新潟の漆器は座卓の生産がメインになった。

1953 昭和28

新潟市漆器業青年会を組織。県内外の漆器産地視察・講習会・
研究会などを行う。満40歳未満で構成され、発足時は塗師14人、
素地師14人、蒔絵および商店部3人。

1955 昭和30

新潟市漆器業青年会が、新潟漆器研究会と改称。

1958 昭和33

新潟市の漆器生産、座卓69%、膳15%、盆1%。
従来と大きく異なる構成になった。座卓生産は、昭和45年・46年に80%。
その後低下しているが、主要な製品。

1965 昭和40

このころ、新潟漆器研究会は会員不足に陥り、活動停止。

1983 昭和58

新潟漆器の特徴として、花塗・蠟色塗のほか、竹塗・金雲塗・錦塗・
石目塗・青銅塗・磯草塗・金虫喰塗・木目塗・根来塗・曙塗・紫檀塗など、
さまざまな変塗がある。

1983 昭和58

製品は、座卓のほか、伝統的に膳・茶櫃・菓子器・重箱・
花台・硯箱・茶道具など。

2003 平成15

新潟漆器が伝統的工芸品に指定。

新潟漆器の魅力

「変塗(かわりぬり)の宝庫」と呼ばれ、
数多くの漆塗り技法が
受け継がれている新潟漆器。
中でも平成15年に国の伝統的工芸品の
指定を受けた5技法を紹介します。